生物の授業の創り方

「授業」という名の何か

私が今までしてきた授業は、教師が教科書に書いてあることをわかりやすくまとめて発表する・黒板に書く、それを写すというものだった。自分で教科書を読んだ方がよっぽど早く、また理解も進む。わからない時、要点を知りたい時のみ、教師の手を借りる、そんな風にできないものだろうかとずっと思っていた。

私自身、学生時代には様々な授業を受けてきたが、同様のものが多かったようにおもう。授業中はあまりにも暇だったが、思い切って内職する(自分のペースで教科書を進める)度胸もない私は、仕方なしに「授業」という名の何かに従っていたように思う。

教師が努力を怠っていたわけではない。入念に準備もしてあったし、私たちがあっと驚くようなものを度々用意してくれた。しかし、質問を投げかけられても、大抵教科書を見れば書いてあり、それを発表するだけの「答え探しゲーム」であった。気を引く目玉も、ただ一時的に驚いて終わり。実験は、高校レベルの授業では、答えのわかっているものを確認する程度しかできない。

ともかく、私が日々感じさせられたのは、「授業」を行う必要性は何なのだろうか、ということだった。科目の要点を知りたければ、ベストセラーの参考書の方がよっぽど教師のまとめよりも遥かにわかりやすい。見張り役としての教師なのだろうか。

何故授業をするのか。何故、1人でさせてくれないのか。何で、そんな効率の悪そうなことをするのか。私も教壇に立っていた時は、子どもたちから同じような目で見られていたのだろうと思う。一方で、私自身も、そんな自分に辟易していた。授業中に内職をする生徒がいたとしても、話を聞いていない生徒がいたとしても、理解しているならば関係ないと見ないふりをしてきた(理解しているかいないかはテストの状況などからもわかる)。それは、もはや授業ではない。ただの教師の「独り言」なのだ。

「授業」をする意味

単に受験テクニックを教えることに終始することもできる。しかし、子どもたちの「学力」は未だ保っているかもしれないが、現実問題として勉強に拒否感を示す子どもが大多数を占めている。テスト勉強はする、受験勉強はする。しかし、「そんなものに本当に意味なんてないんでしょ、稼ぐために仕方ないんでしょ」とのニヒリズムが根底に流れている。最低限の勉強はするが、それ以上の学びはしない。大学進学さえしてしまえば、のらりくらりやりすごすことを大学生活の目的として学ばない。それが、実態のように感じる。

私は、今一度、「授業」について考える必要性を強く感じている。そして、学び、考えた結果、授業をする意味は、友人たちとの「協同学習(思考過程の共有)」であるとの結論に納得した。それ以外に、「集団」で行う積極的な意味がないのではなかろうか(「効率重視」などの大人の都合としての意味は山ほどあるが)。佐藤学氏の著作から、大きなヒントが得られた。以下の文章は、佐藤学氏の著作の影響を大いに受けて、私なりに書き直したものである。

協同学習の原体験として、私は自身の大学時代を思い起こす。大学という場所は、知的な刺激に溢れている。「刺激」だと感じるのも、決して易しい内容を扱っているわけではないからだ。ぎりぎり理解できるかどうか、そういう範囲のものが「面白い」と感じる。しかし、その面白さは1人では得られない。複数の人間がいて、初めて深めることができるようなもの、それが「面白い」の鍵であると言える。また、頭を寄せ合い、考えを共有し研磨する過程も、学習の大きな魅力となる。

大学時代には、ファミレスのドリンクバーで明け方まで粘り、与えられた数学の課題をああでもないこうでもないと、同じ講義のメンバーとこねくり回すことをよくしていた。様々、議論し、実践していくなかで、多くの情報が蓄積し、新しい発想・打開策が生まれるといことを何度も体験した。私は数学に興味があるわけでもなく、ただ必要単位だから履修していただけだった。数学的な面白さは今でもよくわからないが、この協同学習によって私にとって数学は「面白い」へと変貌したのであった。

実際、高校では生物を受験に使わない生徒も数多くいる。そんな生徒をどうやって生物に向かわせたら良いのだろうか。私は、その点において協同学習の可能性を見出している。

生物の授業の創り方

「理解する過程」を授業の軸に

「理解」とは何かと考えた時に、その質感をしっかりと感じ取ること(味わいぬくこと)だと私は定義する。それは、林竹二氏の次の言葉にも似ているものがある。

学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。
林 竹二(教育哲学者)

「何かがかわる」、それは劇的な変化を要求するものではないと私は思う。陥りやすいのが、ひたすらテンションの高さを求める授業や、毎回毎回驚かそうとしてくる授業。そんな授業には、子どもも教師も疲れ果ててしまうだろう。「何かがかわる」、それは些細なもので良い。しかし、静かに確実に変わってなくてはならない。

例えば、りんごを急いで食べると一瞬の味や触感を感じる。しかし、「味わう」ということに重点を置いて食べてみると、りんごの様々な側面、酸味の感じ、甘さの感じ、皮のつるつる感や身の爽快な歯ごたえ、そういったものを知ることができるだろう。それは、その人の「リンゴ観」が変わった(深まった)と言えるのではないだろうか。同様のことが生物においてもあると私は思う。

「細胞の大きさ」では、卵細胞>真核細胞(単細胞生物)>真核細胞(多細胞生物)>原核細胞…との順に並んでいる(もちろん例外があるが)。これらを、「はい、そうですね」と急いで食べてしまうことはできる。しかし、「何故、卵細胞は大きいのか」、「何故、単細胞生物は多細胞生物よりも1つの細胞が大きいのか」…等々、味わうこともできる。そうやって、自分自身で考え出した情報は、「生きて」保存されると私は思う。

実際に、上記の問いを、子どもたちの協同学習として時間を取ると、面白いことがおこる。問が蓄積されていくのだ。「単細胞生物の細胞は大きいのは、1つの細胞で何でもしなければならないから」→「多細胞生物は分業しているから、小さくても大丈夫」→「原核生物はなぜ小さいのか?(大きい原核生物がいてもいいんじゃないの?)」、「原核細胞で多細胞生物がいないのはなぜ?」→…問は積み重ねることで核心に迫ることができる。そして、発想を広げるような問を発するのは、必ずしも優秀な生徒ではないということが面白い。私たちの日常でもある現象であるが、ド素人が言う質問は、的を得ているものが多いのである。

授業目標設定

私は、授業目標を「〇〇を理解する」と授業計画によく記していたが、「理解する」の意味を履き違えていたように思う。「暗記」は理解したことにはならない。暗記は授業中にしなくても良い。その知識の質感を味わうことこそが、「理解する」ことなのだ。特に、生物のような暗記科目と誤解されやすい(されている)科目は特に気をつけなくてはいけない。「暗記すること」を目的とするならば、授業は止めて自主学習の時間とした方が良い。

そのため、目的設定は「何を味わおうか」を念頭に置いた方が良い。何をじっくりと味わってやろうか…こう考えた方が、教師側もよっぽど楽しい。「暗記させてやろうか」ではない、何を共に「味わおうか」なのだ。この味わいポイントを押さえておけば、授業は大抵味わい深いものとなる。それは、子どもたちの力によって味わい深いものとなる。何を味わうのか、その思考過程をいかに授業の中に残せるか、それが教員の頭の使い所と言ってよい。

問題提起

問題提起は簡潔で良い。詳しい数字等は、プリントで各自に配布しておけばよい。先程の例でいうと、「細胞の大きさ」を扱う際に、「ヒトの赤血球7μm」などとわざわざ説明する必要はない。ただ、「細胞の大きさは、その生物種や生体内でも異なる。大きさ順に並べて、何故その順序になるのかを考えてみよう」とリストを配って問題提起すればよい。その際に各自が、「μって何だ?」と調べればよいだけである。

協同学習時間の設定

理解の過程を描くことを最も大切にする。ひとつひとつの過程(問と応答)をしっかりと言語化していく。そして、他者が行うそれを聴く、味わう。

拒絶や嘲笑ではない。他者の言葉を、自分の中に一回落としてみて、ありのままに味わってみる。その出会いによって生じる新たな考えを応答していく。簡単なようで難しい、本来的なコミュニケーションへと戻っていく。

協同学習は、4人組でミーティングのような形をとっても良いし、4人組での実験でも良い。大事なことは、自由に話をさせて、自由に発想させることである。

授業がわかる生徒は、「教科書を読めば書いてあること」を教師がたらたらと黒板に書いていくことに我慢がならない。彼らを中心にするならば、勝手に読み進めて貰った方が良い。一方、授業がわからない生徒は、自らの力で読み進めていくことは難しい。彼らを中心にするならば、教科書に書いてあることを黒板に板書しながら理解を進めていくほかない。しかし、どちらかが満足・不満足の授業であってはならない。そのために、協同学習を行う。

授業がわかる生徒は、理論などの教科書に書いていない背景を知ることによって満足することができる。授業がわからない生徒は、視覚化されて単純化されたペーパーなどを用いて実際に手で動かしてみながら理解を進めていくことができる。どんな生徒にとっても有意義な時間となるよう、この協同学習の時間を作り上げなければならない。

フィードバック・共有

グループ内だけに留まらせずに、全体にフィードバックしていく。その際に、言葉ひとつひとつの繋がりを重視する。学びは連続的であって、関連性がある。関連性に沿って、積み上げていくからこそ面白いし、そこに学びの定着がある。理解経路を確認する、これが重要である。

特に、このフィードバックの時間に、自分がクラスという集団に所属している安心感を得られることが大切である。

教材作成

理解する過程を大切にするためには、その過程が残るような教材を使用することが望ましい。例えば、カルビンベンソン回路。あの回路の完成品を見てしまえば、思考する余地はなく、暗記する他ない。しかし、ワークシートを作成し、カルビンベンソン回路を説明文(別プリント)を読みながら完成させていくことで、物質が変化していく過程を手と目と頭を使って味わうことができる。Cの個数が見事に一致して循環していることや、Pi(リン酸)の出入りの個数が一致していることなど、1つ1つ自ずと理解することができる。板書を写させるよりもよっぽど良い。

4 Comments

K

新年度から生物の授業を担当することになった者です。

受験に、生物を使わない生徒たちを対象にするのですが、どのようにやろうか悩んでいたところです。

ブログの内容を読ませていただき、共感することが多くありました。図の模写ではなく、組み立てさせるワークプリントなど参考にさせていただきます。

今後も更新楽しみにしています!

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管理人

コメントいただきありがとうございました。
暗記科目になりがちな生物の面白さを、受験に使わない子どもたちにいかに伝えていけるのかということは、本当に難しい課題ですね。
もし何か新しい試み等がありましたら、お教えいただければ幸いです。よろしくお願いします!

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W

はじめまして 
期限付きではありますが,4月より生物を担当しております。
高3のセンター試験を生物で受験する看護志望の生徒たちにはどのような
授業をしたらよいのか・・・。
今は確認小テスト→教科書の内容のプリントの穴埋め(個人)→問題演習という流れです。私が解説するようなことはするべきなのか。プリントだけ準備して配って後は自習みたいな状況なのですが

下手な説明で申し訳ないです。

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管理人

コメントいただきありがとうございます。お返事遅くなり申し訳ありません。

4月より生物を担当されており、看護師志望のセンター利用をする生徒に向けて授業を行っているとのこと、現在は教科書の内容理解を重視してプリント作成、問題演習に取り組んでおられると理解しました。受験で生物を使う生徒に対して授業を行うことは大変ですよね。ご苦労、お察しいたします。

私が何かアドヴァイス等をできる立場では決してありませんが、受験生物だけでは生物への興味関心は維持できないことを感じます(私自身そうでした)。全ての授業でなくとも、たまにナマモノに触れる機会があると、生徒もイキイキしますよね。

受験生物を教えなければならないのと、生物の純粋なおもしろさを伝えること、その両立をいかにできるかが学校現場の教員には求められており、そのどちらも満たすということは本当に大変なことと思います。

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