ちょっとディープな生物の世界

進化論と創造論は何が対立しているの?

進化論とは

まずは進化論の話から始めましょう。創造論との対比の中で説明するならば、進化論とは「種は変わりゆく」との主張だと理解するとわかりやすいです。その原理としては、遺伝子の変化(突然変異)と、自然淘汰(環境に適したものが生き残る)と、中立進化(有利不利に関わらず変化していく)によって進化が引き起こされます。

種の定義は「交配してできた子どもが生殖能力を持っていること」です。種が違っていても子どもができることはありますが、生殖能力を持ちません。また、あまりにも種がかけ離れていると子どもすらできません。

現在確認されている進化は、異なる地域のある種のハエにおいて、突然変異が蓄積されていったところ、交配することができなかったとの報告があります。これは、そのハエが進化していき、別々の種となっている途上であると言えます。種とはこのような変化に富むものであり、決して一定でないとするのが進化論のポイントでしょう。

創造論とは

創造論は、聖書に人間の起源を見出そうとする試みです。原理主義的な教派が多く、人類はアダムとエバから始まったとの記事を事実として受け止めています。また、種については固定的であると考えており、神がそのように意図をもって創られたものは、これからも変化しないとの見方があります。

創造論には様々な種類があり、その人自身の信仰によるものが大きいです。どれが正しい創造論かという議論は決してできないでしょう。

また、創造論者の論点のポイントとして、「偶然」か「意志」かがあります。生命体は、偶然に発生したのか、それとも何らかの意思によって発生したのか、という議論です。創造論者は意志によるものだとし、生命に「意味」を見出します。

どちらが正しいのか

この問題の恐ろしいところは、どちらが正しいのかという論争がなされるところです。しかし、よく考えてみると科学はあくまで仮説の集合であり、現象「説明できる」だけです。それは「正しい・間違っている」ではありません。ただ、説明できる、それだけです。

一方、聖書によって正しさを証明することも非常に危ないことです。それは、聖書の言葉というよりも、自身の信条の正しさを主張しているすぎません。ヒトが聖書(神)の言葉を完全に理解することなどできるはずがないのですから、この解釈が絶対に正しいと主張した時点で、当人が自分のことを神格化していることになるでしょう。聖書を読む人間は、どれだけ自分が神の智の前では無知であるのかを自覚すべきです。

この議論の最大の間違いは、どちらが正しいのかを議論してしまったことにあるでしょう。どちらも、科学も聖書も正しさを証明できるものではありません。科学はそもそもそういう性質のものではないし、たとえ聖書に神の言葉が書かれていたとして、それを読む人間にどうしてそれを完全に理解することができるでしょうか。それは、様々な種類の創造論が打ち立てられてきたことからも、人間の不完全さがわかるでしょう。「正しさ」は常に人間が作り出した自己満足であると言えます。一見、科学vs聖書のような構図に見えますが、結局のところ人間vs人間に他なりません。

科学・宗教の役割

科学の役割は、過程を「説明すること」であると言えます。たとえば、交通事故が起きた場合に、なぜその事故が起こったのか、その原因を説明する。それは、エンジンの不調だったのかもしれませんし、運転者の不注意であったかもしれません。この事故が起こった原因はこういうことだよね、と客観的に説明することです。

宗教の役割は、そこに意味を見出していくことでしょう。例えば、その事故で最愛の人が亡くなった場合、なぜ死んでしまったのか、その意味を模索していく活動です。そこには正しいも間違いもありません。深く受け止めた人間の心の底から出てくる思いがあるだけです。

しかし、科学と宗教が断絶しているかと言われれば、決してそうではありません。例えば、科学的分析によって「これは本人の不注意だった」ことがわかることもありますし、「誰かによって意図的に事故が起こされた」ことが判明することもあります。もちろん、それらは事実であるかはわかりません。しかし、その仮説が「意味」に少なからず影響してくることもあるでしょう。むしろ原因がわからない状態よりも、わかった状態の方が、本人の中で「意味」が整理されてくることもあると思います。

これが、科学と宗教の関係であると私は思います。少なからず、宗教は科学の存在を無視することができないばかりか、より自身を鮮明化する影響すら与えているように思います。

今後の科学と宗教

一方で科学が宗教科している現代も非常に危険です。科学が何らかの価値を与えるかのような錯覚を抱きがちです。科学的なものに価値がある、非科学的なものに価値はない、この価値観の延長線上にあるものが科学至上主義でしょう。これは、科学の活動ではなく、科学を手にした人間の活動(意味づけ)であり、宗教です。決して、科学が意図するところではないことをしっかりと認識すべきです。

宗教分野も、よく進化論について科学的な反論を試みていますが、止めた方が良いでしょう。科学者に科学の分野で敵うはずがありません。そのような活動は、宗教とは何かとの目的を見失い、自身の信条の正しさを主張しようとする試みに他なりません。

結局、科学は自身が宗教化していき、宗教は自身が疑似科学化していくという混乱が起こっています。改めて、科学と宗教の棲み分けを整理し、それぞれの価値について確認すべきです。科学は客観的事実の「説明」であり、宗教はその「意味」を問う活動であることを認識したとき、科学と宗教はなんの矛盾ない、それどころかお互いを高め合うものとして発展していけるでしょう。

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