ちょっとディープな生物の世界

古代オリエント世界・ギリシャ世界・ローマ世界

オリエント世界とは

現在の中東付近で起こった文明を古代オリエント世界と呼ぶ。オリエント世界にはチグリス川、ユーフラテス川、ナイル川が流れており、ユーフラテス川、チグリス川近辺では肥沃な三日月地帯を形成した。

前3000年:メソポタミア

チグリス川とユーフラテス川の間の地域をメソポタミアと呼ぶ。紀元前3000年ごろ、シュメール人がメソポタミアに都市国家(ウル、ウルクなど)を形成した。都市は城壁で囲まれており、商業や農業などの中心となった。また、宗教が発達し、神殿がたてられ、王が神の代理人として立った。また、天文学60進法楔形文字を考案した。

紀元前2400年頃までに、西方からセム語系の民族が定住し、アッカド人がメソポタミアを支配した。

アムル人のハンムラビ王古バビロニア王国を成立させ、ハンムラビ法典を制定し国を治めた。ハンムラビ法典は「目には目を」という同復讐で有名である。

 

前3000年:エジプト

ナイル川の領域は、川の氾濫によって肥えた土が運ばれ、農業地帯となった。治水が進む中で、小国家(ノモス)が作られ、紀元前3000年頃にはノモスは統合され、エジプト王国(首都メンフィス)が誕生した。王はファラオと呼ばれ、太陽神の化身として立った。

ピラミッドは王のための墓であり、権力の象徴であった。また、ヒエログリフと呼ばれる象形文字が発明され、1日を365日とする太陽暦が作られた。太陽暦はナイル川の氾濫を予測するために必要であった。

前3000年:ヒッタイト

紀元前3000年から前2000年にかけて、インド・ヨーロッパ語系の遊牧民が移動を始めた。ヒッタイト人アナトリアに王国をたて、メソポタミアに侵入し、古バビロニア王国を滅ぼした。ヒッタイト人は戦車を発明した。

ヒッタイト王国は前12世紀に滅び、戦車や鉄の製法がその地方に広まった。

エジプトにも紀元前1700年ごろからヒクソスと呼ばれる民族が侵入したが、前1600年ごろにエジプトはヒクソスを追放し、ナイル川下流を支配した。また、シリア地方にも勢力を広めた。

前12世紀:セム語系諸民族

前12世紀頃、海岸地帯のフェニキア人レバノン杉などの貿易で活躍した。また、アルファベットを発明した。

アラム人はシリアのダマスカスを中心として活躍し、アラム語は国際商業語となった。

ヘブライ人(イスラエル人)は、各地を移動した後、パレスティナに定住し、ヤハウェを唯一神とする信仰を形成した。前11世紀には、エルサレムを首都とする王国をたてた。この王国は前6世紀に新バビロニア王国によって滅ぼされ、多くの人々がバビロンへと連行された(バビロン捕囚)。その苦難の中でユダヤ教が形成され、旧約聖書がまとめられた。

前9世紀:アッシリア

前9世紀頃、アッシリアは戦車による軍事力で領土を拡大し、前7世紀にはエジプトを征服し、巨大帝国を樹立した。征服地には重税を課し、反発に会い、前7世紀には滅んだ。

その後、オリエントはエジプト、リディア、新バビロニア、メディアの4つに分裂した。

前6世紀、ペルシア人アケメネス朝を立て、再びオリエントは統一された。王であるダイオレス1世は国の基礎を固めた。アッシリアの統治方法を踏襲し、全土を州に分けて監督を置いた。しかし、それぞれの地域の風習を許す柔軟なものであった。言語はアラム語、ペルシア語が公用語となった。

アケメネス朝はゾロアスター教を信仰しており、世界を光明の神と暗黒の神の戦いであるとみなした。ゾロアスター教の「最後の審判」はユダヤ教に大きな影響を与えた。

アケメネス朝は前5世紀にギリシャに侵攻するも失敗、その後エジプトの離反にあい、前330年にアレクサンドロス大王(マケドニア王国)によって滅ぼされた。

古代オリエントまとめ

  • シュメール文明
    • ⇒アッカド人の支配
      • ⇒アムル人:古バビロニア王国(ハンムラビ王)
        • ⇒ヒッタイト(北部)、ミタンニ王国(中央部)、カッシート(南部)
          • ⇒アッシリア王国
            • ⇒エジプト、リディア、新バビロニア、メディアに分裂
              • ⇒ペルシア人:アケメネス朝
                • ⇒ギリシャ人:マケドニア
  • エジプト文明
    • ⇒ヒクソスが侵入
      • ⇒アッシリア王国
        • ⇒エジプト、リディア、新バビロニア、メディアに分裂
          • ⇒ペルシア人:アケメネス朝
            • ⇒ギリシャ人:マケドニア
  • アラム人
  • ヘブライ人
    • ⇒イスラエル
      • ⇒アッシリアに滅ぼされる
    • ⇒ユダ
      • ⇒ 新バビロニアによって滅ぼされる(バビロン捕囚)
        • ⇒アケメネス朝によって解放される
  • フェニキア人

 

ギリシャ世界とは

前3000年ごろから、地中海、エーゲ海の島に、当方から青銅器文明を持つ人々が移住した。クレタ島のクノッソスには巨大な宮殿が築かれた。これをクレタ文明と呼ぶ。

ギリシャ本土には、紀元前2000年頃からギリシア人が北方から南下し、ミケーネなどに王国をたてた。王国は農耕牧畜を行い、貿易を行った。これをミケーネ文明と呼ぶ。ミケーネ文明はクレタ文明を滅ぼした。

前1200年ごろには、地中海では大規模な民族移動が発生し、ミケーネ文明は次々に滅び、「暗黒時代」に突入した。

前8世紀:ポリスの誕生と隆盛

ミケーネ文明が滅びた後は、ギリシャ人は集落を作って生活するようになり、それが発展してエーゲ海沿岸にポリスが成立した。人口が増加すると、移住し、さらに新たなポリスが形成された。ポリスは独立していたが、それぞれが共同意識を持ち、オリンピア競技を実施した。

スパルタは少数の市民が多数のヘロット(奴隷)を支配していた。スパルタはへロットの反乱を恐れ、小さいころから強靭な戦士として育て上げられた。そのため、スパルタは優れた軍事力を有していた。

アテネでは商工業が発達し、裕福な平民が生まれ、重装歩兵として武装した。平民たちは政治への参加を求めた。独裁政治を行う僭主が現れたが、陶片追放により僭主の出現を防ぐ改革が実施され、民主政の基礎が形成された。

前5世紀、アケメネス朝ペルシアの支配下にあったイオニア地方のポリスが反乱を起こし、これをアテネが支援した。そのため、ペルシアとギリシャ(アテネ、スパルタ)と戦争(ペルシア戦争)が起こった。

ギリシャ人は3回にわたる戦闘でペルシア軍を破り、ペルシアの再来に備えてデロス同盟が作られた。デロス同盟ではアテネが盟主となり、資金を使い発展した。また、戦争においては軍船の漕ぎ手として活躍した下層市民の発言権が高まり、将軍ペリクレスを中心として民主政が徹底された。市民権を持つ18歳以上男子による直接民主政が実施された。

ギリシャ神話が作られ、ペリクレスはパルテノン神殿を整備した。アテネでは優れた悲喜劇が生まれ、神が人間の運命を司るものと考えられた。

前5世紀にはソクラテスが絶対的な真理について主張し、弟子のプラトンが理想的な政治について思想をまとめた。また、その弟子のアリストテレスはキリスト教とイスラム教に影響を与えた。

ヘロドトスはペルシア戦争を主題として「歴史」という書物を書き、歴史の父と呼ばれるようになった。

ポリスの崩壊

アテネが栄えると、スパルタとの対立が深まり、紀元前5世紀にアテネ対スパルタのペロポネソス戦が勃発した。戦争はスパルタが勝利したが、その後、新興ポリスであるテーベに敗れ、ポリス間でも争いが絶えず、ポリスの存続が危うくなった。

ギリシャ北部にはポリスを形成しないギリシャ人によるマケドニア王国が建設された。この王国はポリスからは野蛮だと思われていたが、ポリスが衰退していくと、前4世紀にはアテネ、テーベを破りギリシャ世界を支配した。

前336年にはアレクサンドロス大王(3世)が、ペルシア帝国を攻撃し、イッソスの戦いに勝利した。前330年にはアケメネス朝は滅んだ。アレクサンドロス大王はさらに進軍し、大帝国を建設した。

ヘレニズム文化(ギリシャ文化+各地の文化)

アレクサンドロス大王の死後、将軍が国をいくつかたてた。マケドニアセレコウスシリア王国プトレマイオスはエジプトを支配した。これらの地域では、ギリシャの芸術が伝えられた。ギリシャ文化とエジプト、オリエント文化の融合をヘレニズム文化と呼ぶ。また、アレクサンドロス大王の遠征からローマによってプトレマイオス朝が滅ぶまでの期間をヘレニズム時代と呼ぶ。

プトレマイオス朝エジプトの都アレクサンドリアには図書室(ムセイオン)が建てられた。エウクレイデス(ユークリッド)は平面幾何学について、シチリア島ではアルキメデスは数学について定理を発見した。

ヘレニズム時代はコスモポリタニズム・個人主義の傾向が強まり、ストア派は禁欲、エピクロス派は平静な心を説いた。

ギリシャ世界まとめ

  • ミケーネ文明
  •  クレタ文明
    • ⇒ミケーネ文明
      • ⇒スパルタ
      • ⇒アテネ
        • ⇒スパルタ
          • ⇒マケドニア王国
            • ⇒マケドニア、シリア王国、プトレマイオス朝エジプトに分裂

ローマとは

ローマはラテン人がたてた都市国家だった。全6世紀に王を追放、共和制を樹立した。当初は貴族が政治の牛耳っていたが、商工業の発展に伴い平民が力をつけ参政権を象徴した。その結果、護民官平民会の設置を認めさせた。しかし、依然として貴族が大土地を所有しており、政治の実権を握っていた(これがギリシャの民主政との違いである)。

ローマ帝国の誕生

ローマは前3世紀にはイタリア半島を統一、さらにカルタゴを3回のポエニ戦争で破り、地中海沿岸地域を支配した。征服地は属州として統治し、重税を課した。奴隷は大農場(ラティフンディア)で使役された。属州からの安い穀物によって、ローマ人の農民は没落した。

前2世紀、グラックス兄弟は農業の復活を目指し、改革を実施しようとしたが失敗した。そののち、反乱が相次ぎ、スパルタクスが奴隷反乱を起こし、ローマは混乱状態となった(内乱の一世紀)。

そのような混乱の中で、カエサルポンペイウスらと3人で三頭政治を行い、ガリアを征服し、独裁官となった。しかし、独裁政治は反発を招き、暗殺された。

カエサルの養子のオクタヴィアヌスは、アントニウスらと三頭政治を行った。しかし、アントニウスがプトレマイオス朝エジプトクレオパトラと手を組んだたため、オクタヴィアヌスは前31年にアクティウムの海戦で破った。前30年にはエジプトを征服し、地中海世界を統一し、混乱を終えた。

オクタヴィアヌスは前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を得、帝政を行った。帝政開始より、およそ2世紀の間、地中海世界では「ローマの平和」と呼ばれる状態が続き、商工業が発展した。

ローマ帝国の衰退

2世紀からは、奴隷の入手が困難になるお、大土地所有者は没落農民や解放された奴隷を小作人(コロヌス)として土地を耕作させ、土地にしばりつけた。また、属州が栄えると、イタリア半島の優位が揺らいだ。さらに、3世紀には治安の悪化により商業活動が衰え、経済圏が縮小した。結果h、ローマ帝国の維持が困難になっていった。

3世紀には皇位めぐっての争いが生じ、混乱に乗じてササン朝ペルシアが国境付近に侵攻した。これに対し、ディオクレティアヌス帝はローマを四分統治し、皇帝崇拝の専制政治をしき、権力を強化し国家の安定を図った。

4世紀にはコンスタンティヌス帝専制政治を確立し、キリスト教を公認した。都をビザンティウムに移し、コンスタンティノープルと改称した。しかし、帝国の分離は進み、395年に東西に分裂した。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその後1000年維持されたが、西ローマ帝国ゲルマン人の大移動によって476年に滅んだ。

ローマ文化

ローマ人はギリシャ文化、ヘレニズム文化を吸収して独自の文化を確立した。道路、水道、公共浴場、コロッセウム、凱旋門などがあげられる。

6世紀には東ローマ帝国で「ローマ法大全」がまとめられた。

アウグストゥスの時代にラテン文学の黄金期を迎え、カエサルの「ガリア期」、タキトゥスの「ゲルマニア」、プルタルコスの「対比列伝」などの名著が生まれた。

ローマとキリスト教

アウグストゥスの時代にパレスティナにイエスが誕生した。イエスはユダヤ教の形式主義を批判し、神の愛と隣人愛を説いた。イエスはローマに対する反逆者として十字架刑にかけられ死亡したが、弟子たちの間に彼こそが救世主であり復活したのだというキリスト教が誕生した。

イエスの教えはパウロやペテロによって下層民の間に広まり、各地に教会が組織された。また、新約聖書も編成された。

コンスタンティヌス帝は313年にミラノ勅令を出してキリスト教を公認した。ニケーア公会議アタナシウス派を正当教義とし、イエスの神性を否定するアリウス派を異端とした。アタナシウス派は三位一体説を確立した。アリウス派は北方のゲルマン人の間で広まった。その後、キリスト教はローマ帝国の国境となった。

431年のエフェソス公会議ではネストリウス派は異端とされたが、ササン朝ペルシアを経て中国に伝わった。ネストリウスはコンスタンティノープルの主教で、キリストの神性と人性を明確に区別することを主張し、マリアを神の母と呼ぶことに反対した。

カルケドンの公会議では神性の優越を主張する単性論が異端と認定された。

ローマまとめ

  • ローマ
    • カルタゴを滅ぼす
    • マケドニアを滅ぼす
    • プトレマイオス朝エジプトを滅ぼす
    • ササン朝ペルシアと敵対
      • ⇒東ローマ帝国、西ローマ帝国

ササン朝ペルシャ

アレクサンドロス大王の死後、西アジアはシリア王国(マケドニアが分裂した国家)の支配下にあった。しかし、前3世紀ごろにイラン系遊牧民がパルティア王国をたてた。シリアが滅ぶと、ローマと国境を接して対立した。

3世紀になると、ペルシア湾のペルシア人がパルティア王国を倒してササン朝ペルシアをたてた。アケメネス朝の諸制度を継承して、ゾロアスター教を国教とした。また、ゾロアスター教をもとにして、キリスト教、仏教の要素を融合したマニ教も3世紀に出現した。

ササン朝は6世紀に中央集権化を果たし、全盛期を迎えた。当方のクシャーナ朝を滅ぼし、ローマ帝国、ビザンツ帝国とも戦った。しかし、7世紀にアラビア半島から進撃してきたイスラーム軍に敗れて滅んだ。

ササン朝の工芸品は日本にも伝えられ、正倉院に保存されている。

ペルシアまとめ

  • マケドニア王国
    • ⇒シリア王国
      • ⇒イラン系遊牧民:パルティア王国
        • ⇒ペルシア人:ササン朝ペルシア

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