ちょっとディープな生物の世界

【本】「科学者の社会的責任についての覚え書」

唐木順三著の「科学者の社会的責任についての覚え書」読後の覚え書。

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唐木氏が言いたいのは、そろそろ科学者も責任を持ってほしいということ。科学者は、医者とは異なり、その発見について責任を持たないことが主流だった。しかし、ヒロシマ・ナガサキの原爆後、自由に真理探究していれば良いという幻想は悲劇と共に消え去ったと言ってよい。対ナチスとして、オッペンハイマー手動として開発された原爆は、最終的に政治的目的によって日本に投下されることとなった。原爆開発を大統領に提言したアインシュタインは、この事実に打ちひしがれたという。

1954年には、アメリカがビキニで水爆の実験を行い、第五福竜丸が被ばくする事件が起こった。翌年、1955年7月には「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。この署名には湯川秀樹も含まれている。書き出しは次のようなものである。

人類が直面している悲劇的な情勢の中、科学者による会議を召集し、大量破壊兵器開発によってどれほどの危機に陥るのかを予測し、この草案の精神において決議を討議すべきであると私たちは感じている。

私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、いわば人という種の一員としてである。世界は紛争にみちみちている。そこでは諸々の小規模紛争は、共産主義と反共産主義との巨大な戦いのもとに、隠蔽されているのだ。

政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題に感情を強くゆすぶられている。しかしもしできるならば、皆ににそのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちのだれ一人としてその消滅を望むはずがない 生物学上の種の成員としてのみ反省してもらいたい。

http://www.riise.hiroshima-u.ac.jp/pugwash/r_e.html

1957年には、「ラッセル・アインシュタイン宣言」を引き継ぐ形で、パグウォッシュ会議が開かれ、宣言がなされた。この会議の趣旨としては、「科学探求の自由」と、「テクノロジーの制御」の2点が特徴的である。唐木は、科学的真理追求の自由と、それによってもたらされる制御不能の力(核エネルギーなど)は制限するという、未曽有の事態の中に現代の科学者はいるという。また、現代では「核エネルギーの平和利用」として原子力発電が推進されているが、兵器としての核エネルギーと、原子技術的基礎研究の間に明確な一線を引くことができるのだろうかとの疑問が提示されている。というのも、現代では、専門知識と財源さえあればだれでも原子爆弾を作ることが可能だという。その状況で、この未完成(技術的にも、制御する制度的にも)の核エネルギーを自由探究(基礎研究)の名目で放置していて良いのだろうか。

18世紀、19世紀は、いかに科学を宗教的なものから独立させ、科学的真理の自由探究の道を探るかが命題であった。しかし、客観的心理「これこれである」という知識は、「これこれであるべき」という哲学(もっと広い意味でいうならば信仰)とは繋がっていない。アインシュタインは次のように述べている。

「思惟だけでは、究極的な根本的な目的感覚を我々に与えることはできない。この根本的な目的と価値判断とを明らかにし、それを個人の感情的生活にしっかりと根を下ろさせることこそ、人間の社会生活にあって、まさに宗教が果たすべき、もっとも重要な機能であると私は思う」

そうして、「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」と述べている。唐木氏は、この「宗教」は特定の宗教、宗派、を指しているのではなく、むしろ特別の人格において体現されている宗教的な権威、「啓示」として感受するところの動かしがたい権威を指していると分析している。

科学の歴史に突如として出現した「絶対悪」として核兵器。アインシュタインなどの科学者たちは、その責任を痛感し、罪の意識を抱いた。しかし、一般的に言ってそういった例は稀であるし、「懺悔が出てくる基礎、基底がない」と唐木氏は指摘する。

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